長崎県花き生産のあゆみ
年 代 |
事 項 |
明治以前 |
日本の窓口であった長崎では、中国や南方との交流がさかんに行われ、多くの種類・品種の日本への導入行われた。また我が国特産の花き類が世界へ向けて伝搬する窓口の役割を果たし、特に古賀地区の植木産地が重要な役割を演じた。 |
明治時代 |
花は仏花としての利用が主体で、長崎市でもきく、あやめ、かきつばた、きんせんか、シャクヤクなどが畑の端を利用して栽培されていた。また、佐世保市の松田貞一氏は明治35年よりアネモネ等を栽培、明治45年には8坪のガラス温室(ベルギー製)を設置している。 |
大正時代 〜戦前 |
大正時代にはいっても仏花が主体であったが、大正11年から南高来郡の重粘土地帯を中心にテッポウユリの球根生産が始まった。昭和6年に長崎県ゆり根組合連合会、12年には長崎、佐賀連合の同業組合連合会が設立され、さらに全国ゆり根中央会が設立された。第2次世界大戦が勃発するまでは年間2,000万球を生産し、1,270万球前後を輸出して全国一の産地であった。 また、昭和5〜6年には各種の花が栽培されるようになり、長崎市に14〜15人、佐世保市に5〜6人、計約20人が切り花栽培をしていた。昭和10年には長崎市油木の山口熊一氏がバラ切り花栽培を開始、昭和13年に大瀬戸町新川不二夫氏が下関からカーネーションを導入して、50坪のガラス温室で栽培を始めている。 |
戦後〜 |
戦後の花き栽培は長崎、佐世保両市に加え、昭和20年頃より野母崎町、昭和25年頃より大村市で始まる。 |
| 昭和23年 | 長崎花卉園芸農業協同組合が相対取引を主とした長崎花市場を任意で開設。 |
| 24年 | 「佐世保花き園芸愛好会(24名)」が生産者組織として発足。翌年「佐世保花卉園芸出荷組合」と名称変更。 |
| 25年 | 佐世保青果市場の中に花き市場が開設。 |
| 28年 |
長崎では万屋米五郎氏を初代会長にした「長崎花き園芸農業協同組合」が設立。また「佐世保花卉園芸出荷組合」が「佐世保花き園芸農業協同組合」と現在の名称に変更。 |
| 36年 |
長崎花き園芸協同組合、佐世保花き園芸農業協同組合、佐世保青果株式会社等を中心として「長崎県花き園芸連合会」が設立。 |
| 41年 | 有限会社「諫早花市場」が設立。現在は株式会社「諫早花市場」へ。 |
| 45年 | 水田の転作制度が始まり、借地によってもハウスが建設されるなど花き専業指向が強まる。 |
| 46年 | 第2次構造改善事業により瑞穂町でカーネーション団地建設。 |
| 49年 | 〃 大村市にカーネーション団地建設。 |
| 52年 | 〃 吾妻町にきくの団地建設 |
| 60年 | 花き栽培面積151ha、粗生産額26億円(昭和50年対比270%)) |
| 61年 | 県内農業関係機関の花き技術者が、長崎県の花き振興を目標として「長崎県花き技術者協議会」設立。 |
| 62年 |
本県で園芸作物の粗生産額1000億を目指す総合的な振興策として「園芸1000億」事業が始まる。その中で花きは特に重点推進品目として、平成8年の粗生産額75億円(昭和62年は26億円)を目標に、きく、バラ、カーネーションを中心にソフト・ハード両面からの振興策を講じる。 |
| 平成2年 |
雲仙普賢岳が198年の時を経て噴火。花き栽培者も大きな被害を受けたが、その後いち早く営農を再開。島原半島復興のシンボル的存在となる。 |
| 3年 |
県下20JAの花き部会で組織する「長崎県農協花き部会」が設立。系統による県外出荷が促進され、草花を中心 とした産地が県内に育ち始める。 |
| 4年 | 「園芸1000億」の後継事業として、新「園芸1000億」事業がはじまる |
| 9年 |
魅力ある経営000000.体育成のため、ブランド化、省力化、施設化を進める本県園芸作物の総合振興対策である「園芸振興プラン2001」事業がはじまる。 |
| 10年 |
生産者の創意と工夫が最大限に発揮されるよう、生産から流通、消費拡大に至る諸対策を積極的に推進し、本県の花き振興を図ることを設立の趣意として「長崎県花き振興協議会」が発足。あわせて専門部会も設立へ。 |
| 12年 |
花き栽培者数1,588戸(平成2年対比151%)、面積332ha(同82%)、粗生産額57億円(同130%) 長崎県の花き粗生産額が初めての大幅に下落する |
| 13年 |
本県産地の維持・拡大を図るため「園芸ビジョン21」事業がはじまる 長崎県花き振興計画策定 |
| 15年 |
長崎県花き振興大会を開催 |