第6回「Get up, Stand up」
  茶事放談リニューアル後、絶好調の追い風に乗って、早速、第6回が登場です。世知原町、佐々町と来て、いよいよ松浦市の茶業農家と対談しました。
 いつも笑顔を絶やさず周りの空気を朗らかにする、しかし、胸の内にはキラリと光るものを持っている次代のリーダー、田中学氏の登場です。

 田中 学氏について

 田中氏は、松浦茶産地の中核的農家の一人として、日夜奮闘している45才です。今や、田中氏が住む今福町では、唯一の茶業農家になりましたが、茶業だけでなく、みかんや水稲も生産し、地域の若いリーダーとして活躍しています。
 専業農家となり、8年ちょっとですが、他産業に就職していた経験を活かし、広い視野を持ち合わせた茶業経営を行っています。
また、今年4月に設立した「ながさきグリ茶研究会」の発起人であり、現在は会長を務めています。松浦市だけでなく、県北地域の茶業農家の相互交流、仲間づくりにも積極的に取り組んでいます。

 田中氏には、「松浦茶産地で頑張ること、そしてグリ研という仲間」について語って頂きました。

 
 −ご出所、お疲れ様です(笑)。
田中氏(田)「いやー、まだ本調子じゃなかとよ。(苦笑)」
(注釈;大ケガによる1か月半の入院後、前日に退院したばかりでした。)
−田中さんには、何故、この松浦市で経営規模を大きく拡大して茶業を行うのかを尋ねたいのですが。
田「もともと、茶園と製茶工場が家にあったからさ。じいさんの代から、この地域で共同茶園を開いて、地域のみんなで寄り合ってお茶をつくっていたからね。だから、うちでも在来種を植えている茶園は、50〜60年も経っているものもあるよ。」
−へぇ〜。俺、共同茶園の話は、今日、初めて聞いた。
田「松浦市は、どこでもそうだったみたいだよ。今や共同茶園は稗木場地区にしか残っていないけれど。」
−それなら、何故、すんなり就農しなかったのかというと?
田「就職したのは、外の空気を吸うため(笑)。もともと、帰ってきて家業を継ぐ意志はあったのよ。まあ、専、兼業は別として。都会で3年間、その後、親父たちも元気だったから兼業で10年あまりかな。」
−専業農家になったキッカケは何ですか?
田「複合で始まった農業経営で、茶業がその一つではあった。何故、茶業を拡大しなければならなくなったかというと、うちに製茶工場があったから。時代が変わって、地域の人達は、勤めに行く人が増えた。そうすると、共同茶園が減少し、委託加工していた生葉が集まらなくなった。ところが、経営の一つとして続けていこうと思うなら、製茶工場の機械を償還しなければならない。機械の更新を考えると、ある程度の生葉量が必要になり、そのためにはある程度の面積が必要となる。ということが理由で、お茶つくりにハマリ込むことになってしまった(笑)。」
−その結果、県北地域では珍しく、一枚で80aもある大規模な茶園を、新たに開いたわけですが。
田「専業になったと同時に植えて、製茶工場の拡大という次なる目標があって。」
                                          
        田中氏が就農と同時に新規で定植した茶園(1うね100mの大規模茶園)
 −今から8年前ですね。ちょうど、今の僕の年の頃かぁ〜。
田「茶園の造成だけでなく、苗代から育成費まで考えれば、普通の人なら思いとどまるだろうね(笑)。手堅く現金を残す勤め人の方が無難、という選択になると思う。」
−補助事業に頼ることなく、全て自力で切り開いた。すごい事だと思う。
田「冷静に、そのことだけ考えれば、絶対やっていないと思う(笑)。なんだかんだ考えると何も出来ないもんね。投資だと思ってた。しかし、投資をすれば、中途半端な事は出来ないし、それなりに力を入れないとやって行けない。今の年齢から始めるんだったら、考えるけれど(笑)。」
−そして、4年前に製茶工場を新設し、2年前には乗用型摘採機を導入しました。
田「専業になる時、始めっから乗用型摘採機でなければ、先々人手は減るし、茶園管理ができないだろうと考えて。茶園を造成するときに無理して基盤整備していたから(笑)。機械があれば、なんとかなるんじゃなかきゃって(笑)」
−投資は、デカイですよね。
田「よく周りに、「お茶は良かろ?」って言われるけれど、投資が大きすぎるよねぇ。」
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